ほとんどの歌手にとって、オーディションに落ちたり、事務所に面接に行ってひどいことを言われたりして挫折した経験は、一度や二度ではないと思う。僕にもそういう経験があるけれど、それが僕を、さらに前進させる燃料になったのだから、今にして考えるとむしろありがたいことだ。

 

所属事務所を決める前に、ある有名プロデューサーに会いに行ったことがある。知り合いの方と一緒に、僕のアルバムのプロデュースをお願いしに行った。歌手の練習生の全てがそうであるように、僕はそのプロデューサーの前でベストを尽くして歌を歌い、ダンスをし、ラップを披露した。だけど反応はひどいものだった。

 

「正直言ってこの子ね、歌もダンスもラップも、全然ダメってわけじゃないけれど、ソロでやろうってんなら100%失敗するよ。」

 

僕の目の前でそんな言い方をされた時、本当に怒りで手がブルブル震えた。自信たっぷりでやったわけではないけれど、それでもここまでダメだとは思っていなかった。一緒に来てくれた知り合いは、それでもなんとか少しは助けてもらえるよう粘ってくれたけれど、一言ではねつけられた。僕は所詮この程度だったと、足をくじかれた。けれどその瞬間、負けず嫌いに火がついた。「それなら僕がやってやる。必ずあとで後悔させてやる。」そんな負けん気が。当時僕は、あまりにも自虐ばかりする癖があったから、自分で自分をないがしろにすることはできた。でも、他人が僕を無視するのには我慢できなかった。

 

歌手になる前にも、歌手になった後も、こういった状況は時々あった。そのたびに、僕は挫折するよりは、その怒りを原動力にしてきた。いつか復讐してやろうと、歯ぎしりをして。その復讐というのは、すなわち、後で必ず後悔させてやるという一種の自己暗示だった。絶望を前にした人の選択肢は二つに一つだと思う。絶望を抱え込んで座り込んでしまうか、絶望を踏み越えて前に進むかの二つ。どんな絶望の瞬間でも、挫折して座り込んでしまうことに僕は我慢できなかったから、僕の選択肢はいつも後者だ。

 

そうしながら自分自身を励ました。天がわざわざ無意味に僕にこんな試練を与えるだろうかと。僕は特別な最高になることができる人間なんだから、他の人と一緒の人生を送ることを、天が防いでいでいるのかも、と。自己正当化のようだけれど、こんな風に考えなければ、この深い挫折を耐えぬく力が到底なかったので、こうやって呪文のような自己暗示をするのがたびたび必要だった。

 

ダンスチームでダンスを踊っていた頃もそうだった。すぐに殴られたりするような、上下関係の厳しい場所で耐えるのは本当に辛かった。やめていく仲間も多かった。特に僕は先輩たちに目をつけられていたから、より一層ひどくいじめられていた。そんな時、心の中では怒りが込み上がっていたけれど、一度も顔に出したことはない。暴力に暴力で報いるのは、人間がやることの中で一番レベルが低いことだと思う。そして、正直言うと負けたくなかったから。自分自身にも負けたくなかったし、その状況にも負けたくなかった。「どうせあの子も諦めるんじゃない?」と思っている人達の視線も嫌だった。僕も何か一つはきちんとやらないといけないという気持ちがあった。時間が経つにつれ、同じ時期に一緒にチームに入ったメンバーはみんなやめていき、僕だけが残った。

 

こんなことを経験するたびに、僕が持ちこたえてきた方法は、僕に辛く当たる人達に、今に見てろという気持ちで生きることだった。時には呪いながら。他の人達から見れば、この上なく”愚かな”考え方だけれど、僕はこういう姿で生きている自分が好きだ。年をとると人の性格は変わるという人もいるけれど、おそらく僕はそんなことはないと思う。こういう考え方がどんどんひどくなることはあっても、減ることはないんじゃないかな。僕はこれが自分の人生の原動力だと知っている。

 

だからといって、僕が恨んでいる人達に肉体的にも物理的にも危害を加えることはしない、僕は極めて小心者の復讐をするんだ。だた気持ちの持ちようで、恨みを原動力としていくだけ。そうしていくうちに、僕が成長した後、彼らが後悔してくれたら、世界で一番痛快な仕返しになると思う。

 

オショー・ラジニーシの本を読むと、色とりどりの花を大きく美しく咲かせて、とても有名になった庭師の話が出てくる。人々がその庭師に、花を咲かせる秘訣を尋ねると、その秘訣は根にあると答えたそうだ。木に花が咲きはじめると、たくさんある花の中の数房だけ残して、全て切り取ってしまうと言うのだ。そうすると、木の根は怒って、その残った数房の花を一箇所に集約したかのように、大きく美しく咲かせるのだそうだ。つまり秘訣というのは、根を怒らせるということだ。

 

おそらく僕の生き方も、これと変わらないと思う。自分の中の怒りで、何度も自分の首を締めて、最終的には勝利を得るということ。怒りと憎しみを肯定して、解消する自分なりの方法を体得したんだ。辛かった時期にこの方法を知らなければ、周りの人々を殴ったり乱暴な振る舞いをしてしまっていたはずだ。

 

僕がケーブルテレビの歌手発掘番組(※スーパースターK)に審査員として出演した時、僕の言葉に泣いた参加者もいた。特に「物乞いはしないで。」と言ったことについて、ひどすぎるという批判もあったけれど、彼らにとっては本当に必要な言葉だったはずだ。だからたとえ傷つけることになったとしても、僕はきっぱりと言ったんだ。「もう一回だけ……。」と言ってすがりつく姿が、音楽を始めようとする彼らの情熱に蓋をしてしまって、大衆に彼らの音楽を安っぽく見せてしまうことになると思うと気の毒だった。僕も経験してきたけれど、指摘は厳しく言わなければ脳裏に残らない。もし、彼らの中の誰かが「歌手になって成功して、必ずフィソンに復讐してやる。」と決心してくれたら、僕の目的は成功だ。僕みたいな”頭のおかしい”後輩歌手がもう一人誕生することになるのは心苦しいけれど、死ぬほど頑張って、必ず素敵な歌手になって、いつか僕の前に現れてくれ!

 

僕はいつも思っている。世の中にタダ食いというものはないと。いつも他人よりずっと大変な思いをして練習しなければいけない。そして他人より大きなものを得ようと思ったら、もっと大きな怒りが心の中に内在していなければいけないことも!

 

ゲームや小説、漫画のようなものを見ると、家族や愛する恋人を魔王に殺されて、その怒りを原動力にしで最終的に魔王を倒す、という話がどれだけ多いことか。怒りが限界に達して、血を吐くような訓練をした後、大魔王を殺すことができるようになるのだ。どんなにドラマチックだろうか。楽しみながら平和的に大魔王を殺すようなストーリーだったら、とても退屈でどこにも熱中する要素がないはず。人が何かを達成しようとするなら、それが何でもドラマチックでなければいけないし、その原動力がまさに怒りだと思う。これは怒りを肯定して解決する、最善の方法じゃないだろうか。