ダンスチームに入ってダンスを習い始めたときも、初めて歌をきちんと習い始めた時も、僕には”一生懸命”という感覚がなかった。ただ、狂っていた。自分でもそう思うし、他の人達もそう言っていた。キチガイ。とにかく、このこだわる性格のせいで、僕はダンスも歌も楽しむことが出来ない人間になってしまったのではないかと考えもした。けれど、それが僕の宿命だと決めつけたくはない。楽しむ代わりに、苦労して得ようと努力してきたおかげで、他人とは違う経験をして、それが今の僕の仕事の基礎になったのだから。とはいえ、それにしても、今振り返ってみると、本当に我ながら気持ちの悪いヤツだったとは思う。

 

狂ったように走っている間は、ものすごくたくさんの感情がからみ合っている。体を酷使するから、体も大変で、満足することができないから心も辛い。狂ったように突っ走ってきて、以前に僕を無視した人達に、成長した自分の姿をみせつけてやりたいという気持ちもあったけれど、他の人達が休んでいる間に、自分だけは努力しているんだという、妙な優越感もあった。十二万ウォンという大金を工面して入学した音楽学院での生活を思い出してみた。

 

始めて学院に行った時、そこの院長の態度にひどく腹がたった。「なぜ音楽をやろうと思ったの?」と、見下したような言い方をされた。音楽についてすごく真剣に考えている方なので、今も尊敬してはいるが、初めての出会いはそんな感じだった。もしかしたら、本気で音楽をやる気があるのかどうか、確かめるためだったのかもしれない。それによって刺激された人間は、もっと上達し、あきらめた人間は早々に脱落すると。そして僕は、その瞬間、心にぱっと火がついた。怒りが燃料に代わるというのを経験したのだ。先生たちの指導をうけながら学院に通って、ここで諦めてはいけないという負けん気が生じた。

 

学院に通って、そこで出会ったヒョシンとファニからは、常にショックを受け続けた。ビッグママのイ・ヨンヒョン、イム・チョンヒ、そしてトイのキム・ヨンウ先生とは僕のボーカル担当トレーナーとして出会うなど、天才の間にはさまれて、震えるような気持ちだった。その時から、地獄のトレーニングが始まった。

 

高三の時だった、高校は大学進学する生徒ばかりに構っていたので、朝になったら高校には行かず、そのまま音楽学院に行った。僕が何か一つにハマると、他のことがよく見えなくなる”馬鹿”だからこそできたことだ。音楽学院の門は十二時に空くのに、十時から耳にイヤホンをさして音楽を聞きながら、門の前をうろついていた。もしかしたら誰かが少し早めに来て、門を開けてくれるんじゃないかと思って。そうこうするうち門が空いたら、まっしぐらに入っていって歌の練習をした。

 

トイレにいく時間と、ご飯を食べる時間を除いては、歌の練習室に入ったきり出て来なかった。ご飯を食べる時間も惜しくて、ラーメンばかり食べていた。そうやって夜の十時頃、掃除が終わる頃まで歌を歌って学院を出て、終電に乗って家に帰った。こうやって6ヶ月間、学院に通ったけれど、僕が学院に通っていたことを知らない人もたくさんいた。朝に学院に行って夜に家に帰っていたけれど、その間ずっと、僕の顔を一度も見たことがない人達がたくさんいるのだ。

 

ずっと後、歌手になってから、キム・ボムス兄に出会ったけれど、驚いたことに僕を知っていた。僕個人を知っていたわけではなく、音楽学院で練習ばっかりやっているキチガイがいるという話を聞いていたと、「そのキチガイがお前だったのか。」と言われた。実際、当時もキチガイとみんなに言われているのは知っていたけれど、そんなことはどうでもよかった。むしろおかしなプライドまで出てきた。そして、いつもその言葉が結果的に、僕をもっと突き動かした。

 

「ああ、まじで狂ってる。お前はほんとにキチガイだな。全くお前みたいな奴は見たことない。お前は何がしかで成功するよ。だけど歌ではだめだ、絶対に。」

 

いったいどのくらい努力したら、歌が駄目だとは言われなくなるんだろう、我慢できなかった。歌が上手いと言われるのを願ってはいなかった。駄目だとさえ言われないようになればいいのに、学院にいる他のみんなと同じくらいに歌えればよかっただけなのに、どうして僕はこんなにもできないんだろう。それでも落ち込んだままの僕ではなかった。歌以外に上手くなりたいことがなかったというのが、かえってラッキーだった。この先、進むべき道のりはまだまだ長かったから。

 

学院での練習だけが一日の終わりではなかった。家へ帰ってからもジャージに着替えて、近所の学校の運動場を毎日40周ずつ走った。その次に縄跳びをして、自分なりに考案したウエイトトレーニングをして、家に戻って呼吸法の練習をした。大きな陶器の壺に鉄アレイと重い物などを入れて、お腹にのせて腹式呼吸の練習もした。誰も知らない、自分だけの方法で。どこかで正式に習ったものではなく、あちこちで聞きかじった雑知識を総動員したフィソン式トレーニング法だった。本当に死んでもいいくらいの気持ちで取り掛かったので、体が痛いとか睡眠不足とかはどうってことなかった。

 

その頃、腹式呼吸を練習しようと、時間と場所も構わずどこでも呼吸訓練をしていたけれど、笑えることがあった。呼吸練習の中には口で息を吸って、ゆっくり吐く方法があるのだけれど、それをバスの中でも道端でも、構わずやりながら歩いていた。そんなある日、僕の周囲にいた人々が、どこかでガスが漏れているのではないかと騒ぎ始めたことがあった。僕の腹式呼吸の音がガス漏れに聞こえたみたいだ。今思えば、僕が無知で笑える状況だったと思うけれど、その時はそれが笑えることだとは思いもよらなかった。あまりにも真剣だったから。

 

その頃を今思い出すと、本当に息ができなくなるほど恥ずかしい。歌以外、眼中にないほど、しがみつき、くらいついていた時期だった。もちろん、今も歌にこだわってはいるのは同じだけれど、その時の情熱は本当に、単なる”一生懸命”というレベルではなく、”狂っていた”といえるレベルだった。いつかまた、僕がその頃くらいの好奇心と情熱でもって、人生に取り組むことがあるのだろうか?おそらく、それはその年齢だったからこそ可能だったのだと思う。僕は毎回、何か一つに没頭したら、他人よりその没頭の度合は大きいけれど、それはまた、僕の年齢によってその没頭の度合いは違うようだ。二十歳前後の情熱と好奇心が作り出す集中力と、三十歳を目前にして、長い目で見ることができるようになった、冷静な集中力とはまた違うんだ。だから、キチガイと言われていたとしても、その頃の僕の姿は本当に重要だったし美しかったと思う。

 

何かに夢中になっている人々にとって、最高のプレゼントは、認められることだ。人に認められたくて、突き進もうという気持ちが大きいはずだ。自分で自分を認めれば良い?もちろんそれも重要だけど、結局人間というのは、他人の評価が必要だ。特に、ある年齢のときは、師匠の評価が一人の人間の人生を置き換える。才能を見出してくれる師匠に出会わなければ、その才能も光を発することはない。パク・チソン選手がヒディング監督に出会ったように。当時の僕には、学院長と担任の先生に認められることが絶対に必要だった。あんなに歌がだめだとこき下ろされたけれど、この二人の口から「君の歌はいいね。」という言葉を絶対に聞きたかった。

 

学院を卒業する前に、僕の歌を聴かせようと、学院長と担任の先生を呼んで座らせ、歌を歌った。そして静かに反応を見極めた。そして学院長は、拍手をして言った。

 

「君、本当に歌手になってもいいな。上手いね。」

 

六ヶ月間ずっと、遊び半分、真面目半分で「君はご飯も食べないのか?ご飯を食べる時くらいは歌をやめろ。」、「ああ、うるさいな。歌をちょっとやめろ。」と僕におっしゃっていた方々だ。そんなお方が僕の歌の実力を認めてくれたんだ。初めて。その時の気持ちをどう言い表そうか。歌が全くダメだったチェ・フィソンが、ついにゴマ粒ほどの可能性を胸の中に抱いた瞬間だった。

 

読んだ本の中に”不狂不及”という表現があった。”狂”うことがなければ、”及(到達する)”ことはないという意味だ。朝鮮王朝時代の儒学者達に関する話に出てくるのだから、僕が何かにつけ狂ったようになる癖は、僕が朝鮮民族の血をきちんと引き継いでいるように思える。天才は努力する人間には勝てず、努力する人間は楽しむ人間に勝てないのだという。そんな楽しむ人に勝てる人間はいないのかな?僕みたいに狂った人間なら勝てないかな?

 

ダンスを習い、歌を習いながら、僕はいつも楽しんでいる人達に対して劣等感を感じていた。彼らは楽しんでいながらも、いつも僕よりずっと良い結果を出していた。だけど狂った人間が楽しむ人間に勝てることもあるのではないだろうか?いつも勝つことはできないだろうけど、一回くらいは。そうでなければ、どこかにいる僕みたいな情熱しか持ち合わせていない、狂った人間にとって、夢も希望もないじゃないか。