今年、一大決心をして外車を買った。もともと車には興味もなく、外に出かけることもほとんどないのだから、車なんて必要ないのに、あえて外車を買った理由は、人に無視されたくないという気持ちが生まれたからだ。なにしろ小心者で、神経質だったから、人々の視線を気にしすぎて暮らしてきた。特に最近は、アルバムが以前ほど売れないという状況が繰り返されているので、良く見せたいという気持ちが大きくなったのだ。だからそれほど必要ないのに、車を、それも中古の外車を買ってしまった。僕は音楽だけやってれば十分なのに……。自分に自信がなくなって、他人の視線が怖いという気持ちがひどくなる時には、僕はいつも死について考える。

 

’死というものについて、すごく深く考えるようになったこの頃だ。死の後に何があるのかな。人間は何のために生きるのかな。’

-二集アルバム活動中の日記。

 

この日記にあるように、僕は人々の目に、すごく調子よく見えていた頃の二集アルバム活動中でさえも、いつも死と自殺を念頭に置いて生きていた。その中でも自殺衝動が極限に達した時期は、事務所を移った後だった。僕がやりたい音楽が出来なくて、絶望に陥っていた時に、さらに最悪の事態のスキャンダルまで出て、もう僕には先に進むべき道が見えなくなってしまっていた。その時期、僕は自殺したいという気持ちをいつも持ちながら生きていた。

 

ファンから過剰ともいえる愛を受けた一集、二集の時も、僕は自分が成功したとは思えなかった。いつもまだまだ不足していると、自分自身をせきたてた。それが僕の生き方だった。僕がいつなんどきでも、自信をもって言える信念の一つは「僕は、自分の人生を遊ばせない。」というものだ。少なくとも、ぼうっとして過すような生きかたはしていないと、確信しながら暮らしている。僕は人生を無駄にすることが、何よりも耐えられない。一分一秒でも、時間をただ何もせず過ごすことは我慢できない。自分自身をコーナーに追い詰めながら、そんなふうに自分の人生を追い込んできた。だけど、事務所を移籍して、アルバムを二枚出す間、不可抗力で無駄に過ごしてしまった時期があった。僕の考えどおりにできる仕事がなくて、でもなんとかして改善しようと自分をせきたてても、ずっと同じ場所のままだった。その状態が、最終的に自分のせいだという考えに行き着いて、自殺衝動を抑えることができなかった。

 

僕の記憶では、小学校に入る前から憂鬱というのが何かを知っていて、その後もずっとうつの症状から抜けだせずにいた。そんな僕が正式にうつ病だと診断されたのは2005年だった。その時は慢性憂うつ障害という診断を受けた。そんな中、事務所を移籍して、しばらく大変な時だった。大学病院でうつ症状の検査をうけたのだけれど、うつ病指数というのが一般の人の24倍もあったという。最高に危険な状態という数値よりも8倍も多くて、その大学病院では検査を始めて以来の、最高の記録だったそうだ。さらに睡眠薬、抗鬱剤など、薬物についてはほとんど中毒状態だった。

 

そんな状態でも、アルバムは出したし、活動を止めることはできなかった。もちろんまともな活動はできなかった。声が出ない歌手が、一体どんな活動ができるというのか。毎日、睡眠薬と抗うつ剤を飲んでも、眠ることが出来ず、胃けいれんと嘔吐のせいで、ご飯もたべられなかった。その時生じた逆流性食道炎で、喉がずっと傷んでいた。それと、何度肌をピーリングしても、顔と全身にニキビが出続けたり、変なところにできものが出来たりしていた。そんな頃の心情は、どうにも表現できないほど辛かった。そして自殺衝動が僕を誘惑した。アルバム活動も大変な状況なのに、スキャンダルに巻き込まれながら、自分が被害者だと思っていたのに、僕が非難されはじめたから、もうここまでだという気持ちから抜けだせなかった。

 

そして、強力な薬物を服用することは、僕に一瞬の天国をみさせてくれた。すがりついて、すがりついて、そして自暴自棄になった瞬間、薬はその役割を発揮しはじめる。薬を大量に飲むと、欲もなくなって、絶望も感じない状態、言い換えれば全ての感性と感情が停止する瞬間がくる。自分に期待しなくなり、気楽な気持ちでステージに立って、歌もよく歌えた。そして怖かったステージが怖くなくなった。だけど楽しくもなかった。けれど実際は、その時の状況や気持ちについてはよく思い出せない。薬物乱用の副作用だ。僕の記憶回路から抜け落ちてしまったんだ、その時間が。

 

薬を飲んで自殺衝動と戦っていた時、目の前に刃物を置いて、ぼう然と座っていた日々もたくさんあった。こんな風にナイフを見つめながら夜を過ごしつつ、頭の中では多くの妄想と戦わなければならなかった。結局ある日、自分の持っている睡眠薬や抗うつ剤などの、全ての薬物をいっきに口に流し込んだ後、ドアに鍵をかけて眠った。二度と目が覚めないことを願いながら。けれど、目は覚めてしまって、次の日は完全な地獄を経験した。耐えられないようなめまいと、吐き気、嘔吐症状が現れて、ただ虚しいだけだった。自分の意志と関係なく、たわごとをつぶやいていた。それなのにその日、僕はステージで『愛はおいしい』を歌わなければならなかった。泣きそうな顔の筋肉を無理やり引き上げて、かすれた声で愛はおいしいと悲鳴を上げた。その後も何度か、似たような経験があるけれど、これ以上はここで書くのをやめておくよ。

 

こうして、いつも自殺衝動と戦って、愚かな行動をしていた僕の姿は、一時期とても大変だったけれど、今は音楽をする限り、僕が生きている限り、この憂うつな症状は、経験しなければいけないことだと思って生きている。「やっぱり、こういう経験をしてきた人間が歌う歌は違うな。」と思ったりしながら。映画『ダークナイト』で、ジョーカーを演じたヒース・レジャーが薬物乱用で死亡した時、僕にはその気持ちがよくわかった。薬で抑制しなければ、抜け出すことのできない段階、薬で抑制できなければ、暴走してしまう、そんな段階があるということを。それが音楽をやったり、演技をしたりする人間には、逃げることも拒否することもできない宿命だろうということだ。

 

当時の状況を振り返ってみると、「どうか医者を呼んでください。」というメモを残してオーブンに頭を突っ込んで死んだ詩人、シルビア・プラスを思い出す。彼女が残したメモは彼女がどんなに生きたかったのかを表している。僕もまた、彼女のように、死を通じて生きる意味を確認したかったのかもしれない。僕が歌う歌の中で、生と死は一つの過程にすぎない。苦しい人生を生きながら、死の存在を確認して、死から生きる意味を確認するんだ。

 

新しいアルバム活動を控えた今、二度と自殺を考えることはない。何より、僕をとても愛してくれている家族の存在が、僕を引き止める。僕は死んではいけないと。だから二度としない。薬をつかって僕が得たいものは、ただひとつ。何の苦痛もなく、ひたすら歌だけを歌うこと。果たしてそんな日が来るかどうかはわからないけれど。

 

だけどこれだけは知っている。僕が足を踏みしめて立っている、今この瞬間がどんなに辛くても、明日の僕がどんな姿だろうかとか、僕にどんなことか起こるだろうかということはわからない。そんな未熟で苦労の多い人間だということと、完璧な人間ではないということも。

 

フィソンという人間が、一朝一夕で変わるわけがなく、これからもぼくは絶えず自分自身と死闘を繰り広げながら生きていくだろう。ただ、以前と変わったところがあるとしたら、ダメなところはダメなりに、不足したところは不足したなりに、自分を受け入れて、今日より少し良くなる明日を思い描いて、先走った行動はしないということ、それだけ。死にはしないだろうけれど、死んだように生きるということだ。