20002年8月の初めてのコンサートを、僕は忘れることができない。初めてのコンサートにもかかわらず、デビュー曲『アンデナヨ』がランキング一位候補だったので、地上波の音楽番組とコンサート会場を二元生中継をしなければいけない状況だった。そのため、僕は極度の緊張状態だった。歌を十曲以上も歌わなければならない、生まれて初めてのコンサートだということだけでも、プレッシャーだったのに、テレビで生中継までされるなんて、神経が最高に高ぶっていた。さらに期待もしていなかったのに、番組の終わりでは一位になってしまった。遠くで、父と母が涙を拭っている姿が見えて、僕の目からも涙がこぼれた。今まで、どれだけ悲しませて泣かせてきたか……。今、やっと息子の役割を果たせたという思いで、喉がつまりそうになりながら、歌を歌いきった。僕がその日を忘れることが出来ないのは、僕が一位になったからではなく、一位になった僕の姿を見て、泣いている両親の姿を忘れることができないからだ。

 

今まで生きていて、家族が重要ではないとまでは思わなかったけれど、抜け出すことが出来ない貧しさのために、家族の重要さを確信する機会がなく、時にはお互いを傷つけてきた。家族との会話もあまりなかった。ただ、父には父の、母には母の、僕には僕の、弟には弟の、各自それぞれの役割を果たしながら、忙しく生きてきた。腐った果物だけ、残ったおかずだけ、魚の頭だけ食べていた母。内職で綿棒の綿をつけることからはじまって、いろいろなことをして、手をひどく痛めてまで仕事をしていた母を見るたびに、誰に向けていいかわからない怒りが湧いてきたこともあったし、夜明けにまだ眠い体をやっと起こして、家族のために仕事に出かける父を見て、僕は一晩中涙が止まらなかったこともあった。

 

お父さん、お母さん、あなた方はこんなに大変な暮らしをしていても、子供たちには不自由をさせず育てたかったのですね。A4の活動のために家を出て寮生活をしていた時、僕の家の経済状況は最悪だった。その頃、時々家に電話をかけて母と話をしたけれど、僕の力ではどうしようもできない、この厳しい現実に胸が痛んで、ろくに話もできず、涙だけとめどなく流れたこともあった。

 

僕の目には、母もかわいそうに見えたし、父も、弟もかわいそうに見えた。一時は母としょっちゅうケンカしたり、父を恨んだこともあった。だけど僕のために最善を尽くしてくれているということを知ってから、僕の気持ちは申し訳ないという思いに変わった。それに、参考書もなく、塾にだって一度も通ったことのないのに、学校では一位ばかりをとっていた弟もかわいそうだった。弟はとても頼もしい、しっかりした子だったので、両親は、頼りない僕ばかりに関心を注いだ。さぞかし弟はいつも寂しかっただろうと思う。弟は家族にとって、太陽のような存在だった。いつも同じ時刻に登っては沈む、いつもそこにいてくれる、変わらない真実のような存在。だから僕は弟にいつも申し訳なく思っていた。

 

貧しい家の子供達が行くことができない場所の一つが幼稚園だ。よその子供たちが、幼稚園の制服を着て通って行くところを見ると、本当に羨ましかった。その頃僕は、幼稚園に通わせるのが経済的に難しい家庭の子供を対象とする、国営の福祉施設のようなところに通っていた。だけど福祉施設でも、ぼくは仲間はずれだった。幸せではない環境で育った子供特有の、気難しい性格のせいだった。幼稚園には通えなかったが、ものすごく安いテコンドー教室に、一時期通っていた記憶がある。子供のために何でもやらせてあげようという、母の気持ちのおかげだった。そんなふうに、僕にとって、世の中の全ては母の気持ちのおかげだ。

 

”お母さん”という言葉を口にするだけでも、こみあげてくるものがあるけれど、一度すごくつらいことがあった。A4の活動が失敗して、僕が廃人のようになっていた時だった。A4はセカンドアルバムの活動をはじめていたけれど、僕は実力とルックスがだめだという理由でメンバーから外された。学校の友だちはみんな大学への願書を書いていたけれど、僕は受験勉強をしていなかったから大学には進学できないし、何よりも大学に行くような経済状況ではなかった。どうやって生きていったらいいかわからず、家にも帰らず、地下鉄や知り合いの家で寝たりして過ごしていた時期、疲れに疲れて、母にため息混じりに言った。

 

「僕、軍隊に入ろうかな?」そうしたら、母の口から思いもよらない返事が返ってきた。

 

「そう、行きなさい。」母の口から軍隊に行けという言葉が出るなんて……。当時の暮らしがあまりにも苦しくて、何もしてあげられないと思った母にとっては、こんなふうに言うしかなかったのだと思うと、とてもつらかった。だけど軍隊に行こうかというのは、僕の本音ではなかった。ただの泣き言だった。そんな状態で軍隊に行ったって、本当に何にもならないということを、誰よりも自分が一番よく知っていた。負け犬の気持ちで軍隊に行くのが嫌だったから、最後にもう一度だけやってみようという気持ちで、実用音楽学院に登録した。けれど、またお金が問題になった。学費は進学コースが15万ウォン、実技コースが12万ウォンだった。当時の僕の家の経済状況では、12万ウォンは大金だったので、話を切り出すのも大変だったが、結局僕の味方についてくれたのは、またも母だった。母にせがんでこの大金を工面してもらった。こうして母は、僕がだめになりそうなときには、いつも僕を助けてくれていた。

 

あまり口に出すのははばかられるけれど、実はその頃、僕は何度も自殺を決意したことがあった。死ぬよりほかにいい方法がないような気がして、死ぬことで頭がいっぱいになって、どうやったら苦しまずに死ねるかという方法について悩んでいた。苦しまず、苦しまずに……。今にして思うと本当に笑える悩みだ。死を決意したくせに、ちょっとの痛みが嫌でなんだかんだ悩むなんて。そんな意気地のないことでは、決してこの尊い自分の命を終わらせることはできない。僕は、自分の大切な人生が、自分の意志とは関係なく、台無しにされている状態がくやしくて嫌だった。周囲の状況がどんどんひどくなっていって、これ以上、この残酷で汚い状況を自分のせいにする、自虐する力さえ出なくなってしまっていたので、自殺を通じて世の中に復讐してやろうという狂った考え方をしていた時期だった。だけど、毎晩、自殺衝動を乗り越えて理性を取り戻したら、家族に対して申し訳なく、悲しくなって涙が出てきた。お父さん、お母さん、僕の弟ヒョクソン。彼らが心から望んでいるのは、僕の幸せがあってこその、彼らの幸せだということはわかっていたのに、極端な考え方をした自分が憎くて泣けてきた。僕のはやまった行動が、彼らに永遠の悲しみを残すだけだということを知りながら、この世を去ろうとした自分自身が憎らしくなった。だから、今、僕は、家族の幸せがある上での自分の幸せを願うだけ、彼らの望むことだけが、僕の望むことだ。